Voice 2001年 8月
井尻 千男 (拓殖大学日本文化研究所所長)
本格的な日銀批判の書
景気対策と構造改革は別
「構造改革」という言葉がマスコミにでない日はない。小泉純一郎内閣は「痛みのともなう構造改革を断行するのだ」といっている。だが、その改革のさきにより良き社会が実現するのかどうか。そこに国民の不安がある。たんにアメリカ流の競争社会が出現するというだけのことならば、さしたる意味がない。逆にいえば日本流の経済システムはそんなに悪いものだったのかという疑問でもある。その疑問が、ならばヨーロッパ流はどうなのかという問いにつながる。
ベストセラー「円の支配者――誰が日本経済を崩壊させたのか」(リチャード・A・ヴェルナー著、吉田利子訳、草思社)を読みはじめると、読者はただちにヨーロッパ人の眼差しを感じる。たとえば「まえがき」の次のような言葉だ。
<不況によって、日本の古い経済体制はもはや機能しなくなった、だから根底から改革しなければならない、というのが通り相場になった。識者の大部分は「なにがなんでも」構造改革が必要だと主張している。日本の中央銀行の幹部はほとんど毎日のように構造改革を叫んでいる。アメリカ流の資本主義を導入しなければならないというのだ。だが、ほんとうに日本流の資本主義を捨てる必要があるのだろうか?この主張を裏付ける唯一の根拠は1990年代の不況である。ところが80年代には、日本の経済体制はいまよりはるかに閉鎖的で、カルテルが幅をきかせ、統制されていたのに、誰も当時の経済成長率が低すぎるとは言わない。1950年代と60年代にも同じことが言える。明らかに、同じ経済構造でも成長率は高くも低くもなるのだ。>
ここが重大なポイントなのだ。政治家と識者たちは構造改革を断行しなければ景気が良くならないのだといっている。つまりアメリカ流の資本主義を導入しなければもう成長は望めないというわけだ。しかし著者の立場は違う。景気対策と経済システムは別の次元の問題だと考える。アメリカの資本主義にだって好不況はあるのだから、それを導入したからといって経済成長が保証されるわけではないということだ。
この議論の仕方は、ここ10年間の日本人の不明と不幸の原因を衝いている。景気対策と構造改革を一つのことと考え信じ込んだ不明と不幸という意味だ。もちろんアメリカの政治家や識者は日本に対して構造改革を急げというだろう。それが20年来の対日政策の基本だからである。
著者ヴェルナーはドイツ人、1967年バイエルン州生まれ、英オックスフォード大学大学院博士課程を経て東京大学大学院で経済学を専攻し、91年から93年まで日本銀行金融研究所で研鑚を積んでいる。この研究キャリアからも察せられるように、本書の隠れたテーマは日本銀行と大蔵省との確執である。たとえば「90年代のいつをとっても、中央銀行が信用創造量を増加させれば、景気回復は実現できたはずだ」というように、彼は日銀の判断と姿勢を批判する。一般的には大蔵省批判が強いのだが、彼はむしろ大蔵省には同情的だ。政府と大蔵省が景気対策に必死になっているときに、日銀は非協力的だったばかりか、故意に信用を収縮させつつその足を引っ張っているというのだ。
つくりだされた「危機」?
本書は本格的な日銀批判の本である。原題は「Princes of the Yen」。そのプリンスたちが「円の支配者」というわけだ。大きな焦点はやはり「前川レポート」(1986年)を出した日銀総裁・前川春雄氏ということになる。中曽根康弘内閣のときに前川氏が座長をつとめた研究会の報告で、これがその後の構造改革論のベースになっている。そこで語られた「内需拡大」がバブル経済のきっかけになったことはいうまでもない。
ヴェルナーは端的に「前川レポートは、アメリカ側通商代表の要望リストのようだった」と断ずる。当時の日本国民の圧倒的多数もそう思ったものだ。だが、いつの間にかそこに書かれた構造改革が国策のようになってしまった。いわゆる「保守革命」という名のもとに。著者は日本的経済システムを「戦時経済体制」の延長と見ている。1920年ごろまでの日本は冷酷なまでの資本主義をやっていたわけだが、大恐慌の克服と戦時体制と戦後改革を経て日本的経済システムをつくりあげたという歴史観をもっている。いわゆる「1940年体制」論者といって間違いないのだが、その日本型社会を単純に否定しているわけではない。ドイツにだってアメリカ流資本社会に反するところはいくらだってあるという自覚にもとづいている。ヨーロッパの知識人としては当然のことである。だから次のようにいう。
<一国が基本的な改革を遂げうる環境はたった一つしかない。それが歴史の法則だ。じじつ、経済的、社会的、政治的システムの大きな変革を遂げた国は世界にひとつもない。危機に見舞われた場合をのぞけば、である。> もう多言は要さない。景気が悪くなったぐらいのことで、抜本的改革を実現しようなどということは不可能なのだということだ。にもかかわらず、それをやろうとするならば、「危機」をつくりださねばならない。
ヴェルナーは日銀に対して、構造改革を実現するためにあえて危機を生みだしているのではないかという疑いを差し向ける。マキャヴェリ的思考の持ち主なら当然、正義と信ずる改革のために危機を生みだすぐらいのことはするだろうと。「前川レポート」は発表当時もいまも日本改造のための「十年計画」と呼ばれているではないかというわけだ。
たしかに不況が長引けば長引くほどに、景気対策と構造改革が重なってくる。本来は別のものだとわかっていても、10年も不景気が続くと、構造改革を断行しないかぎり景気は回復しないと思うようになるものだ。日銀がどこまで自覚的に危機を生みだしたか、あるいは危機を放置していたかについては意見の分かれるところだが、どうやら日本が「歴史の法則」に反する領域に突入していることは事実だろう。